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主に三次元

ジャニヲタへの道。①

人様がジャニーズにすっころぶ話がとても好きです。いらっしゃいませ!! みたいな気もちになる。私が転んだ切っ掛けも書いてみたい気持ちになったので書いてみようと思います。

が、私今でこそ事務所の子みんな可愛いわ~石油王と結婚できてお金持ちになれたらジャニーズ会社の株買って派閥問題とか消し去りたいわ~と思ってますが、大抵の子たちがハマる年齢であろう十代の頃、

 

ジャニーズが大嫌いでした。

 

とりあえず草生やしといてください。(古い人間なのでどうしてもあの草を生やすのが苦手です。2ちゃん用語だもの……って思ってるばばあ)

そんな私のジャニヲタへの道です。お題使わせて貰います。

お題「ジャニヲタになったきっかけ」

 

当時の私、というか今も好きですけどMr.Childrenが好きでして。というかバンドが好きだったんですね。ミスチルは中学の頃、「深海」というアルバムでドはまりしまして、初めてどきどきしながら音楽雑誌を近所のイトーヨーカ堂の本屋で購入しました(バックステージパス)。

でどきどきしながら桜井さんのインタビュー読んだら真珠の話してやんの!(この真珠は田中聖くんの例の真珠と同じ話題で御座います。桜井さんがしてたってことじゃなくて何故か真珠ネタで曲を表現してらっしゃった)私、深海のあの繊細な名曲を創り上げる男の人が下ネタとか話すなんて思ってもなくて(当時自分は十四歳でした。深海をきいたときに「こんな哲学的な人が日本の音楽界に存在したんだ!!」って感動したのにインタビューで真珠ですよ。この時に世の中には裏切りが潜んでいることを知りました)微妙にショックを受けて「いや、雑誌でこんなにショックだったら生で見たらもっとショック受けるんじゃないか?」と防衛本能が働いて、当時周りの友人に「ライブとか行かないの?」と問われた際に「夢が崩れるから行かない」と公言しておりました。そんな中学時代。

元々日本語の恋愛ばっかの歌詞が嫌いで嫌いで、インストゥルメンタルばっかり聴いてるような嫌味な中学生でした。(特にこの頃は姫神が大好きで物凄い聴いてた。あとは細野晴臣さんの名盤「銀河鉄道の夜」未だに素晴らしすぎると思います。大好き。インストではないけどもワーズワースの冒険の主題歌「シャ・リオン」もこの頃好きになった曲です)

嫌味な中学生でしたので、好きだの愛してるだの薄っぺらい言葉ばっかを軽快な音楽に乗せて歌うJ-POPに憎しみさえ感じておりました。世の中の至上は恋愛しか無いのか!! んなアホな!! 恋に踊らされてみっともない!! 人間の本質はそんなもんじゃないはずだ!! 程度の低い曲が多すぎる!!」と当時本気で思っていました。(モテない学生時代を送った喪女の僻みとはこのこと)そんなわけで、その「薄っぺらい恋」だの「程度の低い愛」だのを歌う代表的なアイドルの皆さまがほんっと嫌いだったんです。

特にジャニーズ。

 「バンドは解るよ? 自分たちで作詞作曲して演奏までしてインディーズから這い上がってメジャーデビューするわけでしょ? 路上からテレビへ、なんて夢があるし努力の過程だって解るじゃん。だけどジャニーズの何が嫌かってあいつら曲は提供曲だし歌下手だし、そもそも顔だけなのになんでバンドの皆が頑張ってる音楽市場を邪魔してくれんの? オリコン1位とか意味わかんない!!」当時十五歳。まじで友達にこういう話してた。本気でそう思ってた。無知は罪です。

そんなわけで私は十代はジャニーズを憎みながら生きていたのでした。ただ唯一「あの子達は歌うまいしまぁ許せる」(どんなけ上から目線なんだよ)と思ってたのがKinKiKidsだけでした。音楽番組やってたしね……よく見てた。

夢が壊れるから生で見ないでおこう、私のミスチルは深海のあの歌詞の中にいる。と今で言うところの「現場」に足を運ぼうとしなかった中学時代は終わりました。現物を見なければ幾らだって夢や希望は抱けます。真珠のことだって忘れられる!

そんな自分は高校に上がってからラジオを聴く様になりました。買ってもらった目覚まし時計にラジオの機能がついていたのです。当時ネットは電話回線の時代。今のように頻繁に使えるわけでもなく、テレビはテレビでうち大家族でしたから争奪戦があって面倒くさい。結果ラジオをたくさん聞きはじめるのでした。

そこで「お?」と思ったのが「ゆず」でした。当時まだ桜木町で歌っており、地方民の自分からしてみたら「桜木町ってどこよ?」ってかんじでしたが横浜は遠いとその後に知ることになります。だけどラジオから流れてくるゆずの「なにもない」という曲が兎に角いい。なんかすごくいい。このふたりは一体どういう人なんだろう。気になる。でもあんまり何処にも載ってない。(ちょうどメジャーデビューした頃だったので)いい曲だなーミニアルバム買おう、ってミニアルバムを買ってなにもないをひたすら聴く日々。そうしたらなんとゆずが桜木町を抜け出して、路上サーキットをするという。しかもタダ!(貧乏学生の私には渡りに船!!)これは行くべき!! つって「あの、ゆずっていう二人組がいるんだけどね」とライブ慣れしていたチャゲアス好きの友人を誘い(あの子元気かなぁ……)、名古屋へと繰り出したのでした。

あんた散々生で見たくないとか言ってたじゃん! とチャゲアス好きのその子は(当時部交換日記してたけどSEE YAって最後に結ぶのがファンっぽいなってずっと思ってた)私のことを揶揄いましたが「いや、でも、タダだし!!」(貧乏人根性)とよくわかんない言い訳で、地方民である私は初めて「現場」に足を運んだのでした。栄のナディアパークでやっててね、「わー!!」って思ってるうちに終わっちゃいましたがなんかすんごい高揚したのを覚えています。「生で音を聴くって楽しいな!!」というのが感想でした。でも「なにもない」はやってくれませんでしたが。あれからゆずのライブ3回くらい行きましたがなにもないは聴けたことがなかったなぁ……

で、そこから「あれ、生で見ても意外と夢が崩れない! ふたりとも可愛いしすんごくいい声だった!」と考えを改め始めます。そうこうするうちにビジュアル系が台頭し始め、グレイ、ラルクの二大巨頭が現れました。グレイもラルクも行きましたが特に私はラルクにハマりましてライブ行きまくりました。めちゃくちゃ楽しかったなぁ……

ライブハウスにも行くようになり、CASCADE、SOFIA、マスケラ、ラクリマ、アシッド、よくわかんない対バンやらなんやら、覚えてないくらいには行きました。西川貴教くんも見に行ったし(ドSだったという印象)、7188にも連れていかれて女の子も見るという。なんかあの頃はほんと、よくわかんなかったな、行きすぎて。生で夢が崩れるって思ってたんですが「いや、夢が崩れるどころか膨らんでる」って気づいちゃったもんだから誘われるものすべてに足を運んでいました。懐かしいです。何故ビジュアル系を好きになったのかと言うと、歌詞ですね。歌詞が耽美なんです。恋愛でもこねくり回したような日本語が使ってあって(ラルクの花葬に至っては純文学)私の美意識を刺激したという。

そんなどちらかといえばアンダーグラウンドなバンドに足を運んでいたわけです。ちなみに当時のミスチルにも行ってますがあの当時桜井さんは「抱きしめたい」なんて死んでも歌わない、くらいの強い気概があるかんじで戦争の映像がんがん流すわ暗い演出だわでミスチルの中でも最もダークな時期だったと思います。正直に言う。あの頃のミスチル大好きだった。最高だった。素晴らしかった。でもやわらかい恋愛ソングを求める層からはあんまりいい評価じゃなかったなぁという記憶。そうこうしてたら活動休止を迎えるという。で、アンダーグラウンドな、というかざっくりまとめてビジュアル系(っていうとラルクのてっちゃんに申し訳ない気がします)が好きだった自分が、何故かこの頃とんねるずにハマるのです。ビジュアル系からの華麗なる芸人への転身。

とんねるずの全盛期はフジでカメラぶっ壊してた時代ですから、私はその当時の熱狂的なとんねるず人気を知りません。私が好きになったとんねるずはもうすぐ40代になろうとするいい感じに脂ののった芸人でありました。とりあえず「実食!」って言ってるイメージ。なんでハマったんだろ? そこを全然覚えてないんですが、薄い記憶の紐を何とか辿りよせて解いていってみると、あの頃のとんねるずの番組に要因があった、ような、気がします。(やっぱりうろ覚え)

当時のとんねるずは「ジャニーズシニア」とジャニーズジュニアを逆手にとったコント(?)を繰り広げておりまして(というか当時ジャニーズシニアはおったけどな、事務所に。坂本くんとかシニアだったからな)、ジャニーズを毛嫌いしていた私は(うん、まだ嫌いだった)それ見て爆笑してたわけであります。

覚えているのは「硝子の少年」を必死に踊るおっさんたち。最初は面白い! って笑って見てたんですが、ジャニーズシニアを演じるのは芸人ではなく大道具さんや照明さん、という裏方の人たち。とんねるずの得意技「身内芸」です。裏方をオモテに出して笑いを取るという芸風。それがもうとにかく不格好でも必死にダンスを踊ろうとレッスンするんです。その頑張りを見ていて何故か熱いものが心臓に流れてくるんです。

お気づきですか。

 

私は、野猿にハマりました。

 

ビジュアル系からなんで野猿やねん!!! と当時のラルクファンで付き合いのあった方々には笑われましたが皆優しかったので(私よりも年上で皆大人だったんだと思います)ずるずると野猿に引っ張られて行く私……おっさんが好きだと自覚する十代後半の自分……とんねるずを筆頭にカンちゃんは平山さん、ホッシーにタカク、あーみんな好きだった!! 本業も頑張ってるけどやれと言われて仕方なくやってた野猿でちゃんと頑張らなって頑張ってるおっさんたち最高に恰好よかった。(おっさんおっさん言うてますけど今の私と似たような年齢だよなぁとおもうと感慨深いです)そんでもって野猿は曲が凄く良かった。石橋さんから「キンキみたいなかんじで!」と作曲家の後藤さんが発注されてたので曲がメロディアスで本当に素晴らしかった。

名曲揃いですよ。個人的にはカンちゃんとテルりんのデュエット曲、「Ash」がすんごい好きです。太陽の化石のカップリング曲なんですけどこれ今のジャニーズが歌っても似合う曲だと思います。とにかくいい曲。ふたりの声の質感の良さも良く出てる。Selfishとかも好きだったなーとにかく野猿はいい曲が多くて聴いても楽しい、見ても楽しいというとんでもないグループでした。私にとっての脳内革命。

作詞作曲自分たちでやってなくても、必死にダンスして必死に歌ってる姿ってこんなにも痛快なんだ!! っていう物凄い発見でした。野猿は活動中オリコン1位とれませんでしたけど「がんばれ! 1位とって!」と心の底から応援出来たグループです。過去の自分から想像がつかない。作詞作曲やってないような歌のうまくない薄っぺらい歌詞を笑顔で歌うアイドルが大嫌い!! だった私が、「そうじゃないのかもしれない」と思えるようになった切っ掛けは、まぎれもなく、野猿です。

ああ野猿を見たい。コンサート見たい。そんなわけで私は野猿のコンサートに足を運ぶことになるのですが、まさかのそのコンサートは「撤収」。

そうです、解散コンサートなのでした。

こんなにも楽しくてこんなにも夢中になったグループが解散してしまうとかどういうことよ!! でも最後に目に焼き付けておきたい!! って初めてバンド形式ではない「ライブ」というか「コンサート」へと足を運んだのでありました。

音源は勿論生じゃないし口パクだったかもしんないけども、それでも汗水たらして必死に踊って必死に歌うおっさんたちの姿は感動的でした。もう凄く凄く楽しくて「解散いやだああああ」って本気で思いました。初めて此処で気づくわけです。

胸を撲つのは「熱意」なんだと。

歌詞や作詞作曲に拘ってた自分が愚かだと思う程に、その場で無様に見えても必死に観客に向けて最大限の表現を魅せようとする人たち、が素晴らしいんだと漸く此処で目が覚めました。

ああ、違ってた。十代の自分はまだなんにも見えてなかった。

当時19歳の自分は、野猿にそれを教わったのです。

まぁ、なんで野猿なんだというところでは草生やし物件な気がしますが。でもほんと格好よかったんですよ、みんな。そうして私の心にはぽっかり穴が開いたのです。野猿解散と共に、私は今後こういう良質な悪ふざけ的エンターテインメントに接することはできないんだと随分悲しい気持ちになりました。

そんな私はラジオを聴くこともなく、深夜であればテレビが独占できることに気付いた大学生と相成りました。深夜のバラエティはとても楽しい。ぽっかりあいた心の隙間を埋める様に、私は以前からぼんやり見ていたV6の番組に傾倒していくのです……

野猿のお蔭でフジテレビばっかり見ていた当時の自分は、木曜日はずっとフジテレビにお世話になっていました。木曜23時枠をご存知ですか。野猿の後はV6、そのサイクルがいつしか「当たり前」になっていました。

野猿を失ったのちの私は習慣のように木曜日はフジテレビにチャンネルを合わせてしまうのです。そんなわけでV6の素は欠かさず見ており、その後のマッハブイロク、お笑いV6病棟、ビバビバV6、と番組が変わっても欠かさず見ていた私は、此処で漸くジャニーズとの遭遇を果たすのでした。

坂本さんの不憫さ、ごうちゃんとけんちゃんの絶妙なコンビ感、いじられても優しいイノッチといつも笑んでる二次元みたいな長野君、そして末っ子感満載の岡田君。

「かわいい……!!!」

決め手は人数の多さでした。野猿も人数多かったですからね……どの子を見ても可愛い!!そして特に坂本君の就職エピソードを知った頃から、どんどん沼が見えてきました。これはあぶない、と思う暇もなく、私ははじめてのジャニーズ、V6にスッ転ぶのです。

二十歳の頃でした。

ええ、周りの友人達がジャニーズを卒業するころになってようやく、ジャニーズの良さに気付いたのです。

 

 

思ったより長いので続きはそのうちかきます。

ジャニーズに辿り着くまでが長い。

 

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